Facebook Beaconは構造的な問題ではなく極私的な問題で。


佐々木さんの連載から。ちなみに私、「いつかは受け入れられる」と思っている人間です。


「今日、こんな映画を見たんだよ」「今度、こういう演劇を見に行くんだ」「この前、すてきなソファを買ったの」。つまりはこうした雑談のやりとりをフィード化したのが、Beaconなのである。しかしこうしたやりとりは、友人のすべてと行うわけではない。高級なソファを買ったという話は、年代が違っていて収入差もありそうな若い友人にはあまり話したくないし(偉そうだと思われるのがオチだ)、忙しい会社の同僚に映画や演劇の話をするのも適切ではない。また自分がかなり変わった趣味を持っている場合、その趣味に関連する行動を、一般社会に生きる友人たちには知られたくないという場合もあるだろう。例えばアニメ系のコンテンツをAmazonで買いあさっているのを、せっかく知り合ってFacebookでつながってくれた可愛いあの娘には、あまり知られたくない。


【第15回】レコメンデーションの虚実(15)〜Facebook Beaconはいつかは受け入れられるのか? (2/2) - ITmedia アンカーデスク
http://www.itmedia.co.jp/anchordesk/articles/0712/25/news037_2.html


こういう書き方をされてしまうと、「あー、あるある、そうだよね」とついつい相槌を打ってしまいそうになりますが、新しいテクノロジーによる新しいサービスに対して、従来から持つ、新しくない人間の行動特性を当てはめて回答を導き出そうとしても仕方がないんじゃないかなと思うのです。オープンソースWeb2.0だと言っていても、それを活用する側が変わらない限りは、それぞれのサービスの持つポテンシャルがフルに発揮されるはずもなくて。


自分の様々な情報と、それを受け取る側の人間との関係性によってシェアのレベルを変えている、というのは確かにあると思います。すごく単純な例で言えば、私は友人に仕事でお付き合いのあるクライアントの話はしませんし、そうあるべきだと思っています。ただ、プライベートな話についてシェアのレベルを変えなくてはならない人というのは、言い方がアレですが、何か問題がある人なのではないかな、と。上に挙げられている例を見て、個人的には「知られて何がまずいのかと」と感じています。


法的、倫理的な制約のために新しいサービスやスキームの導入が進まないというのはよくあることです(閾値を越えたサービスは法を、そして倫理を変えますが)。一方、ユーザーの意識として「何かいやな感じがする」レベルでこの種のサービスがシュリンクする方向に行っている、もしくは行っていると理解することはとても危険だと思いますし、とても寂しいことだと思います。


つまり、Facebook Beaconって何が悪いのか、という言説がWeb上に足りないな、と。大手メディアがこぞって「プライバシーが」と言って回っただけでいったん撤退を余儀なくされるこの世の中、まだ変わりきってないんだなと強く感じさせる一連の流れでした。


ちなみに、日本ではまだ導入する企業が現れてないですね。創造的模倣戦略をスピーディーにやれば一旗上げられるタイミングだと思いますが、さすがに怖いのかしら。システム的にはそんなに困難じゃないし、どっかやらないかな。