「普通」の重要性


Twitterでボソッとやってカワムラ氏と新井ちゃんあたりからレスポンスをもらうのでも良かったんだけど、それだと忘れそうなのでこっちに。


言い古された議論だと思うのですが、いくらセグメント、ターゲットなんていう話をしたとしても企業が行うマーケティングコミュニケーション、メッセージングというものはある程度「普通」な人をターゲットとしているものが多くなります。消費者が多様化し、そもそも何が普通で何が異常かも分かりづらくなっているとはいえ、(嫌いですがあえて使うと)F1はオダギリジョーや福山が好きでしょうし、地方在住者より首都圏在住者のほうが可処分所得が高いのです。


テクノロジーをベースとしたターゲティングが隆盛を極めている現在の広告マーケットにいると、ついついここで「いや、オヤジ趣味のF1もいるし、名古屋には富裕層が多い。もっと細かくターゲティングしよう」なんていうことを考えてしまいがちなのですが、これ、果たして正しいのでしょうか。はてさて。効率の良いマーケティングを展開するために生み出されたはずのターゲティング論が行き過ぎて、返って非効率になってしまうんじゃないかと。


モグラやサイグラを個人個人、一人一人分析して、それぞれが何を求めているかが分かる、そこのレベルにまではきていると思うのです。理論上は個人情報のデータベースとWEBサイト上での行動をトラックすることができますし、GPSやらPOSを個人と紐付けて「ライフログ」を取る、みたいなサービスがいつ始まってもおかしくないでしょう。


ただ、その個人が分かるということと、最適な打ち手を展開できるということの間は天と地ほど離れており、世界中に存在するほとんどの企業は、SIerやらコンサル会社やらにそそのかされて導入したデータウエアハウスに日々蓄積される「過度にセグメントされた個人情報の山」に辟易としている、することになるのが関の山ではないかと。あ、例外は世界のデータベースマーケティングアンドロジスティクス企業・Amazonくらい。


で、話が猛烈にそれましたが、もう少しだけ書くと、大事なのは「普通」の感覚だと思うことが最近増えました。それも、プロの感覚で普通を感じ取ることが必要だな、と。そう、それがインサイトだなと。


いわゆる「業界人」として毎日を送っていると、例えばmixi年賀状を見たとき、普通に出すといくらで、クライアントがついているといくらで、その差額分はクライアントが負担しつつ、mixiがいくら抜いているんだろうな、みたいな、生活者がまったく気に掛けない(昔よりは「そういうこと」に敏感になっているだろうけど)問題ばかり考えてしまって、利便性とかを正常に、いや、「普通」の感覚で判断する能力が徐々に衰えていってしまう。そしてそれはマーケターとして陥りやすいながらも末期症状で、そうなるわけにはいかないわけです。


売れているものがあった場合、何故売れているかばかり考えずに、まずは乗っかってみる。ものすごい再生されているYouTubeの動画があるとしたら、何故流行っているかばかり考えずに、まずは観てみる。宣伝会議読んで業界のちっちゃいトレンド追ってる暇があったら、下世話だけど生々しいSPAとか読んで「普通」の人が何考えているのか感じてみる。そういうことがおろそかになるのが超怖くなった。


プロの視点で、「普通」の大衆として生きる。来年のテーマになりそうだな。難しいけど。