高級外車で迎えに来てもらう塾通いの小学生を見て思う。


休日出勤途中、なにやら高級外車がたくさん通るな、と思ったら、会社の近所の塾に子どもをお迎えにくる親御さんたちなのでした。うーん。そこで思ったこと。時代格差か? 地域格差か?


時代格差は、んー、どうなんだろう。子どもの数が減って一人あたりにかける教育コストはその分上昇している、なんていうけど、そもそもぼくが小学生、中学生の頃も、そういうやつはいたな、って。平凡な公立小学校だったけど、「テストで100点を取るとファミコンのカセットを1本買ってもらえる」というルールがある、ということを暴露した楠くんはいじめられるどころか、クラス中から羨望のまなざしを浴びていた。よく遊んでいた西堀さんのお父様の書斎に忍び込んだ時には、デスク(机、ではなく)の上にあった茶色い細長い物体が葉巻であることなどつゆ知らず、渋いチョコレートかと思って頬張りそうになって止められた。いろんな世界がある、そう感じていて、それは多分今もそんなに変わらないんじゃないかと思う。姪のスイミングスクールのお出迎えに行ってもそうだし、甥が小学生の頃やっていたリトルリーグの試合を見に行ってもそう。そんなに変わらない。


でも、地域格差はきっとある。きっと。自分自身比較的都会で生まれて育ってしまったので完全な実感を持てるわけではないけど、たとえば四国の直島に旅をした際に話した小学生や、松山の中学校から眺めた松山城と空のコントラストは、東京や神奈川では決して味わえない。こうして叙述できるもの以外にも、空気、雰囲気、気温などなど、「都会ではないところ」で生まれ育った人には、きっと何かがあるんだと思う。そして、それはすごく大切なものなんだと思う。


もしかしたら「地方」にも名門塾は存在していて、高級外車がお出迎えにくるのかもしれない。でも、率で言えば東京をはじめとした首都圏、つまり「都会」とは比べものにならないはず。それがデフォルトであると考えながら育ってしまう人間と、その状態を違和感を持って育つことのできる人間では、その人間性に多少なりとも違いが生まれてくるんだろうな、と思う。


ちなみに、個人的に、「実家」がないというのがコンプレックスで、実家はもちろんあるんだけど、夏休みに「スカイメイト取れるかなー」とか「みかんが大量に送られてきたので食べてください」というのが、当然ながら、ない。「実家」がある人は大げさに言えば世界を2つもっている気がして、その2つの世界の間を自由に行き来できる。やろうと思えば。それができないのが何とも悔しい。それができないから、こういう人間なのかもしれないな、と、変な風に考えてしまうときさえある。


なので、地方出身の人の話を聞くのが好きです。地方出身の人が自分の出身地を自慢しているのを聞くのはもっと好き。週明けたら、地方出身の人ともっと話してみよう。そう思ったのでした。


まとまりもオチもありません。あしからず。