生きることと、あと、報道について


朝からテレビを観ていて、少し思うところがあったのでメモ。テレビ、侮れないなあ。2つありまして、ひとつ目は、めざましテレビが追っていた、長野県立こども病院の話。


NICUにスポットが当たっていて、それ自体は別に珍しくも何ともない。ただ、そこで働いている現場担当者のお医者さん、若干40歳。少し考えてみれば、40歳だからこそ現場を張っていられるのかもしれないけど、でも、たかだか10個しか違わない。


時に新生児の死に立ち会い、時に九死に一生を得た小さな命を包み込むように抱く。彼の言葉や表情、生活からは「生」のにおいがプンプンする。生命というものと非常に近い位置にいるから、それが自然なのかもしれないけど、日々迫る「瀬戸際」に対して自分を失うことなく生活をしながら戦い続ける氏のスタンスに、とてもびびった。びびった、というのは、10年後、自分は彼のように戦っていられるのか、という意味において。


今から医者になることもできないし、失われゆく生命を救うこともできない。そういう自分の無力さを感じながら、今できることで、今すべきこと、もっとも社会のため、人のためにできることをしなければならないな、と改めて感じて、引き締まった。


ふたつ目。ズームイン!!SUPER。


結論番宣(「行列のできる〜」のスペシャルの)なんだけど、肝臓の病気と戦って、最終的には肝臓移植をオーストラリアで受けて今も(投薬しながらだけど)元気に生活をされている27歳の女性の人生を取材したもの。ちなみに番宣なのは、島田紳助が彼女に手紙を送り、勇気づけていたから、という点において繋がってる。


紳助がすごいとか偉いとか、そういう当たり前のことはどうでも良くて(感動したけど)、臓器移植を受けた人の人生というものに、とても興味がある。興味があるという言い方は少し興味本位的で我ながら嫌気がさすんだけど仕方がない。


彼女は「臓器を提供してくれた人の分まで精一杯生きたい」と話していた。とても大きな生きるプレッシャーだと思う。サボれないし、休めない。一生背負う重くて大きな「他人の臓器」という十字架を、どのように消化しどのように自分が生きる力に転化しているのか。どれくらいドナーのことを考えるのか。そして、その人生は幸せなのか。スーパー余計なお世話だけど。


人は他人に活かされて、他人を活かして生きていく。そうしたい人、そうしたくない人、そうせざるを得ない人、そうしたくてもできない人。いろんな人がいるけど、それぞれに人生があって、でも、何とかしてハッピーにしたいな、と思った。何となく。で、すごく論理が飛躍して見えるかもしれないけど、広告にはやっぱりその可能性があるから、もっと踏ん張ろうと思った。


で、最後に、報道の話。ひとつ、ほんとによく分からないことがあって、ニュース番組でネガティブなニュースを流す理由は何なのか。おかんにきいてみたら「そりゃ、人の不幸は蜜の味だから、その方が視聴率がいいからでしょ。あんた、広告会社にいるのにそんなこともわからんのか」と一喝された(そこまでいうことないのに)。


でも、どうしても分からないのです。その理由が。上に書いたような、自分自身がいろいろ考える材料になる素敵なコンテンツがたくさんあるのに、なぜわざわざネガティブなニュースを流すのか。犯罪であれば模倣犯が出るだろうし、不景気は余計に煽られるし、そもそも気分が暗くなるしで、いいことなんか一個もない気がする。もちろん、「大きくネガティブな問題」を周知するためには意味があると思う。飢餓だ、貧困だ、差別だ。そういう社会問題が発生していることを知ることのないまま、誰もが白痴に暮らしているのはまずい。ただ、まずい言い方かもしれないけど「誰々が自殺した」「誰々が殺された」みたいな「普通にネガティブな問題」を放送する理由が、どうしても分からない。うーん。3年前くらいからわからないまま。


ハッピーなニュースだけを流し続けるチャンネルがあったらいいな。誰も見ないのかな。あ、でも、スカパーでMTVだけ見て生活すればいいのか。そうかそうか。その手があったか。でもなんか、それもつまんないなあ。さ、考えよう。